2003
7

 こいのぼりを揚げない村と平将門伝説
―森と渓流の秘境「神泉村」への小さな旅―

 春爛漫の4月中旬、県道前橋-長瀞(ながとろ)線を長瀞から本庄・児玉方面に向かって、車を走らせ、その日の宿、神泉村(かみいずみむら)の「樹庵(じゅあん)」を目指した。下阿久原の交差点を左折した直後、空気が一変したことを全身で感じた。神泉村の空気は深い森と渓流に浄化され、澄んでいた。「清浄」という表現が、しっくりきた。

*「樹庵」
郵便場号 367-0313 埼玉県児玉郡神泉村矢納526
電  話 0274-52-4821

▽JUONは都市と農山村漁村を結ぶネットワーク
 「樹庵」を宿泊場所とした理由は、JUON(樹恩) NETWORK関東甲信越地域(JUON関東)主催の「神泉・樹庵で夜桜を楽しむ集い」に参加するためだった。JUONは環境の保全改良、地方文化の発掘と普及、過疎過密の問題解決に取り組みことを目的に発足した都市と農山村漁村を結ぶネットワークだ。
 かつてインタビュー取材したことのある全国大学生協連専務理事の小林正美さんらが中心になって発足させた。このインタビューが縁となって昨秋、JUON関東が企画した「北鎌倉のお寺見学と紅葉狩り」の案内役を頼まれ、これを機にJUON関東の行事に時々参加するようになった。

*木がなければ人間が滅びてしまう
http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/5/y.html

*JUON関東
http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4120/

▽廃校を活用したセミナーハウス
 「夜桜を楽しむ集い」の案内文には、次のように記されてあった。
 「神泉はJUON発祥の場(早稲田大学生協と神泉村)の一つであり、JUON関東にとって、様々な活動のベースキャンプに位置づけられているところです。JUON総会の開催、森林の楽校の定期開催、冬桜見学などをおこなってきました。早稲田大生協のセミナーハウス(「コープビレッジ神泉」)の運営が「樹庵」に委託され、樹庵の運営者もJUON関東にコメットメントして、樹庵(神泉)を使ったJUON関東の活動の 組み立てを希望しています。1月のJUON関東世話人で、4月と10月の2回の神泉企画が確認されたので具体化させていただきました。1泊2日、ゆったり と神泉の自然に浸りたいとおもいます」 
 樹庵の前身のセミナーハウス「コープビレッジ神泉」は、1983年に廃校になった矢納小学校を有効活用している。“新しい村づくり”ができないかと神泉村と早稲田大学生協で2年間に亙る調査と検討を行ない、85年に誕生した。

▽関東で最も人口が少ない村
 森と渓流に囲まれた神泉村は、埼玉県の最北端に位置している。昭和29年に矢納村と阿久原村の合併により生まれた。合併当初の昭和30年に2123人あった人口は、平成11年には1408人と減少。過疎化が進行し、現在は関当地方で、最も人口が少ない村となっている。そして、2年後には本庄市との市町村合併が既定路線となっている。

*神泉村
http://www.vill.kamiizumi.saitama.jp/

 神泉村の朝は、人工的な音がほとんどしない。樹庵の前を流れる川のせせらぎとウグイスの鳴き声が、目覚まし時計代わりになった。部屋の窓の外には、ほぼ満開の桜。その中にメジロとヒヨドリの姿があった。昨夜の眠りは深かった。体の芯から疲れが取れた。2年前の同じ時期に福島県の奥会津の秘境・昭和村に一泊した時のことを思い出した。

▽残雪とヤマザクラとブナの芽吹き
 時は本当に静かに流れた。この時も眠りが深かった。残雪とヤマザクラとブナの芽吹きを同時に目にすることができた。昭和村は本州唯一のイラクサ科の多年生草本の植物「からむし」の生産地だ。昭和村も神泉村同様に、いやそれ以上に過疎化が進んでいた。昭和村では、からむしを素材にした「からむし織り」を目玉にした村おこしに躍起になっていた。
 到着した日に、村の人たちによって熊が銃でしとめられた。村役場の人が、しとめられた熊の置いてあるお宅へ案内してくれた。大勢の村の人たちが集まっており、どぶろくで祝杯をあげていた。体重100キロを超す熊はすでに解体されており、毛皮のみ見ることができた。
 昔から、熊は毛皮と漢方薬の原料となる内臓に商品価値があり、肉は村の人たちの食用になってきたという。厳しい自然環境によって、外界から遮断された村の貴重なタンパク源になったのだと思う。翌朝、旅館にこの熊の肉がお土産として届けられた。自宅に帰ってから、恐る恐る食べた。鯨の肉のような味がした。樹庵」の夜の料理に猪(味噌がベースの猪鍋)と鹿の肉料理(刺身としぐれ煮)が出た。このことも昭和村のことを思い出させる理由になったようだ。

*昭和村
http://www.vill.showa.fukushima.jp/
  
▽印象に残った城峯山山頂からの展望 
 過疎化の進行を食い止めるため、神泉村では我が国初のデポジット制度を導入したり、留学生と村の子どもの交流、都市市民との交流、自然食品の開発など、これまでに美しい自然を生かした多様な村づくりに取り組んできた。
 神泉村は、豊かな自然の恵みである水もおいしい。カタクリは慎ましやかに紫色の花を咲かせ、ウメの花もまだ残っていた。サクラも種類が多い。ちなみに村の木は冬桜。村の花がカタクリ。村の鳥がメジロ。冬桜は淡いピンクの花を咲かせるという。
 今回の小さな旅で、最も印象に残った風景は、城峯山山頂からの展望だった。なんと360度見渡せるのだ。北海道の専売特許ではないのだ。晴れていると関東や関東周辺に位置する日本の名山が、ことごとく一望できる。この日は北鎌倉から見慣れている富士山や丹沢の山々は見えなかったが、奥秩父の山々、南アルプス、浅間山は見えた。秋はきっと紅葉がすばらしいだろう。

▽城峯山には桔梗が咲かない
 山深い神泉村は、今なお数多くの伝説が残されている「秘境」でもある。「樹庵」で聞いた話を二つ紹介したい。いずれも矢納地区における、今から千年ほども昔の、中央権力や既成秩序に対する「反逆のヒーロー」、平将門にまつわる話だ。

 最初の話。将門が矢納の城峯山にこもっている時、矢納の民家で揚げたこいのぼりで将門の所在が敵に知れてしまい、将門は戦いに敗北した。このため、こいのぼりを揚げると不吉なことが起こると信じられ、矢納では現在でも、こいのぼりをあげることはない。
 二つ目。城峯山に立てこもり、最後の戦いを続ける将門の元には、桔梗という名の美しい娘がいた。苦しい戦いの中で、桔梗に癒された将門はいつしか桔梗を愛するようになった。しかし、桔梗は敵が送り込んだスパイだった。不審な敗北を続けていた将門は、遂に原因が桔梗であることを知った。激しく怒り悲しんだ将門は「桔梗よ絶えろ!」と叫びながら彼女の首をはね、そのまま自刃して果てた。以来、将門の怒りによって城峯山は決して桔梗の咲かない山になった―。

 自然のありがたみをしみじみと感じた二日間の小旅行だった。紅葉を堪能するために、秋に是非とも再訪したいと思っている。さらにいうと今後、神泉村がどのような特徴あるむらづくりをしていくかを見守りたいという気持ちがある。神泉村の取り組みが成功すれば、過疎に悩む他の地域に大きな希望を与えることになると考えているからだ。



                                                   (了)

 

ウメとサクラに包まれた樹庵
城峯山山頂近くにある日本武尊が
祭神の城峯神社
残雪とヤマザクラとブナの芽吹きが
美しい昭和村
神泉村の「村の花」カタク
城峯公園から見た神無(かんな)湖
庭石の産地・三波石峡
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