2004
vol.3

 シリーズ・団塊世代よ、帰りなん、いざ故郷へ!
 ―第4回「古き良き原風景を後世につなぎたい!」―

 古き良き原風景を後世につなぎたい!
―地域力をつくる建築を目指す建築家の佐川旭さん―

【プロフィール】 1951年11月19日生まれの53歳。福島県石川郡古殿町出身。佐川旭建築研究所代表(http://www.ie-o-tateru.com/)。木文化再生友の会世話人。環境にやさしい家づくりをテーマに、農林業の活性化と森林の保全活用を図るべく森林資源循環をめざした木造の家づくりに積極的に取り組む。100年後の人々にも愛される「時を超える」建築を目標に木造の小学校建設などの公共事業を通して、まちづくりにも深く関わっている。

▽宮沢賢治も訪れた第二の故郷
 東京・西麻布にオフィスを構える佐川さんの本当の故郷は、福島県福島県石川郡古殿町だ。でも、本当の故郷と同じように大切にしている第二の故郷がある。第二の故郷とは、あの宮沢賢治もよく訪れたという岩手県紫波郡紫波町だ。紫波町は人口3万4千人、面積全体の約58%が森林で、空気と水が、とびっきりきれいだ。東に北上山地、西に奥羽山脈、そのすそ野に広がる平野の中央を北上川が流れている。古くから高級木材として使用されてきた南部アカマツの産地であると同時に、リンゴやラフランスといった果物の産地でもある。

 「紫波町とのご縁が出来たのは、1999年です。この年、(財)『日本環境財団』が紫波町の依頼を受け、町の環境調査を実施しました。特別研究員として調査を手伝いました」。本格的に関わるようになったのは、翌年からだ。調査報告受けた紫波町は、まちづくりの最優先目標を環境と位置付け、環境新世紀フォーラム「環境100年計画」を開催、「母が見た風景を、浴びた陽の光を、感じた風を、清冽な水を、そして紫波の環境を100年後の子どもたちにも残し伝えます」と未来都市宣言を行った。
【参考】
紫波みらい研究所
http://www.shiwa-mirai.com/

▽故郷のイメージとも重なった!
 フォーラムを機に、佐川さんは紫波町都市計画審議員に任命され、建築家の立場からまちづくりに本格的に関わるようになった。「フォーラムには小中学生を含め、町の人口の1割に当たる3000人以上が参加しました。町民の環境に対する関心の高さに驚かされました。それと町長が強いリーダーシップ持ち、スピード感に溢れていました。町長の考え方で、変革が可能な人口規模だと思ったし、ゼネコンが入り込んで町を荒らしていませんでした」

 紫波町の風景は、実際の故郷のイメージとも重なった。「古殿町の人口は紫波町より少ない7200人です。山に囲まれ、山すそに小さな平野があって、その平野を一本の川と道路が走っています。主な産業は農業と林業。実家は米屋で、私は四男でした。長男以外は故郷を出るのが、宿命付けられていました。紫波町に何度も足を運んでいるうちに、しゃかりきにならなくてすむ自分を発見しました」

「体験した原風景を後世につなぐのが
団塊世代の役目」と話す
建築家の佐川旭さん
佐川旭さんが設計した
上平沢小学校(紫波町)
佐川旭さんが設計した
JR東北本線・紫波中央駅
▽地元の産材を使い、地元の大工が建設
 佐川さんは、紫波町のまちづくりに協力するため、紫波中央駅駅舎、上平沢小学校、消防団屯所、虹の保育園の設計、工事管理を担当した。この時、大きな『実験』を試みた。四つの建物に使用する木材を全部地元産に限るとともに、地元の大工さんだけで建設したのだ。「建物を介して、利用者側にも地元の産業や技術に触れる機会を提供したいと思いました。大工さんは30代と60代の組み合わせとしました。プレカット材しか使ったことのない若い世代に、60代の職人の技を伝えてほしかったからです」

▽学校は第二の団らんの場
 佐川さんの紫波町への強い入れこみの背景には、従来の公共建築への建築家としての苦い反省も関係しているようだ。「例えば学校建築を考えてみてください。これまでは均質で無表情、地位との関連性という視点が欠落していました。本来なら、学校は、地域の人々の交流の場であるはず。それなのに学校建築がコミニュケーションをぶつぶつ切る役割を果たしてきました」。上平沢小学校は木造平家で3棟から成り立っている。設計にあたり、地域の人々の交流を考え、正面玄関から入るとすぐの場所に多目的ホールを配置した。

 「学校は家庭の延長線上にあります。家庭を第一の団らんの場とするなら、学校は第二の団らんの場です。多目的ホールはその象徴です」。2003年6月の上平沢小学校を会場とした森林資源循環フォーラムには、小学生も参加、上平沢小学校の建設に関わった大工さんをはじめとした地元の人々の思い出話しを聞いた。これに先立ち、小学生は建設途中の現場も見学している。そこでは、世代の垣根を取り払ったコミニュケーションが復活し、総合学習の格好の実践の場にもなった。

▽私はどこからともなく吹く風
「地域の建築はつくられる過程の中で大勢の地域の人が関わることで語らいが生まれます。語らいは愛着や、今まで気がつかなかった事など、今までの自分と違う発見をさせてくれます。又未知の事柄も知る機会となります。こうして生まれた人の環はいくつもの多層構造になり地域に厚みを増してくれます。この厚みこそが地域の助け合いや絆として現れる共同体の力、すなわち地域力なのです。それはやがて知恵の体系として受け継がれていくのです」。紫波町に関わることで、「地域力をつくる建築を目指す」という建築家としての進む道もはっきりした。

 「私たち団塊の世代が、伝統や文化も含めた日本の原風景を体で覚えている最後の世代ではないでしょうか。団塊の世代以降の世代は、日本の原風景を知識でしか持ち合わせていません。団塊の世代には日本の原風景を後の世代にきちんと引き継ぐ使命があると思います。紫波町の『実験』で感じたことは、私はどこからともなく吹く風であって、地域の人はこの土地を成す土だということでした。風と土が触れあって風土をつくり始めました。私たち団塊の世代って、日本という国を考えた時、風のような存在だと思いませんか」

【参考】
▽「木文化再生友の会」設立宣言
―樹を植える、切る、使う、植える―
http://member.nifty.ne.jp/Kitakama/8/17.html

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