【2】【インタビュー】鎌倉自主探鳥会・久保廣晃氏
―人が来ないと谷戸は悲しがる―
「北鎌倉の風」第二号掲載、2000年11月発行

 北鎌倉景観トラストは、毎月第三日曜日に「なだ いなだと北鎌倉周辺を歩く」を定例行事として開催しておりますが、このガイド役をお願いしているのが、鎌倉自主探鳥会の久保廣晃さんです。久保さんは台峯のことは隅から隅までご存知で、“里山のホームドクター”ともいうべき存在です。この久保さんに台峯の魅力や特徴についてお聞きしました。聞き手は野口稔・広報担当委員。

●台峯は貴重な生き物の宝庫
 ─台峯には毎週のように朝から晩まで夢中で通い詰めているとのことですが、いつごろからですか。また、きっかけは。
 久保氏 一九八六年か八七年ごろだったと思います。自主探鳥会のメンバーの方から「谷戸(関東地方で、低湿地のことをいう)らしい谷戸が、残っている場所があるよ」と教えてもらいました。当時、地元の人は、台峯の谷戸とは言わず、倉久保の谷戸と呼んでいました。通い始めた当時、野村不動産による台峯の宅地開発計画が明らかになり、それに対して市民の反対運動が盛り上がっていたことを記憶しています。
 ─台峯の自然の特徴についてお話下さい。
 久保氏 倉久保の谷戸に隣接して東谷戸(山崎の谷戸、現在の鎌倉中央公園)があっりました。倉久保の谷戸は、田んぼが耕作されず、自然の状態に戻っていました。悪く言えば荒れていました。これに対し、東谷戸は田んぼや畑が多く農家の人たちが、手入れをしていました。同じ場所にある谷戸なのに、こんなに違うものかと思いました。その当時、自然は手入れをしない、ありのままの方がいいと思っていました。だから、東谷戸より倉久保の谷戸の方が自然が豊かだと思ったのです。でも通い詰めることによって、自分が自然に抱いていたイメージが違ってきました。東谷戸の方が、いろんな生き物がいて面白かった。自然の質の問題があると気付きました。

●「鎮守の森理論」に疑問を抱く
 ─質の問題?
 久保氏 自然の質の問題を考える際のポイントはまず面積。二番目にひとかたまりで存在すること。例えば百ヘクタールの緑地があるとします。この場合、十ヘクタール掛ける十より、百ヘクタール掛ける一の方がいい。これが基本です。そして、緑地の中に田畑と山林が、モザイク状に存在していることが、生き物の多様性をもたらします。つまり、人間が手入れをしないと生きていけない生き物が多いということです。鎌倉全体を見渡すと田んぼや畑が少なくなっています。これは自然の質が悪くなっていることを意味します。しかし、七〇年代は、「鎮守の森理論」が、もてはやされていました。人の手の入らない鎮守の森には、大昔の自然環境が残っているから、大切にしようという考え方で、世界的に有名になりました。ブナ林を守ろうという運動は、この理論から芽生えました。「鎮守の森理論」は、雑木林よりシイやタブ、つまり常緑樹の方を重視します。でも、両方の谷戸に足を運ぶことによって、この考え方に疑問を抱きました。
 ─疑問とは。
 久保氏 一定面積当たりの植物の種類を調べたら、鎮守の森タイプより雑木林の方が、植物の種類が多かったんです。そこで生き物の多い雑木林の方が、自然としても価値が高いのではないかと考えました。倉久保の谷戸と東谷戸は、地続きで隣接していますが、人の手の入っているか、いないかという点で好対照でした。人手が入らない方が、植物の種類が多いと思っていたのに、どうも違う。この疑問を解くために両方の谷戸に足を運んで、こつこつと調べました。私にとって倉久保の谷戸は、格好の実験場になりました。そうしているうちに八〇年代に入ったら、学会の様子が変わってきました。雑木林見直し論が、勢いを得てきたのです。学会の趨勢と私の疑問が、一致しました。こうした時期に倉久保の谷戸に宅地開発計画が具体化したわけです。倉久保の谷戸の生き物を調べて、記録を残そうと決心しました。博物館があれば、データが残ります。しかし、鎌倉市には博物館がありません。データのエアポケットになっています。データ集めは、時間との競争だと思いました。一方で東谷戸が、鎌倉中央公園になることが、決まり「どうせ、公園になるのだから」ということで、開発される以前に農家の人たちが、田畑の手入れを止めたため、ものすごい勢いで田畑が、放棄されていきました。自然環境がどんどん悪化するのが、手に取るように分かりました。

●人間の汗の塊が見えた
 ─データを取り始めてどのようなことが分かりましたか。  久保氏 シジュウカラやメジロなどの森林に生きる鳥は、田畑がなくなっても、あまり影響を受けません。しかし、森と田畑の境目に棲息するホオジロやモズは、田畑がなくなると生きづらいですね。田んぼがなくなってコサギが、急速に姿を見せなくなりました。サシバも来なくなりました。カエルやヘイケボタルの産卵場所がなくなりました。植物の種類は、二倍から三倍くらい東谷戸の方が、倉久保の谷戸より多い結果が出ました。チョウも差が出ました。湿地を放置すると乾燥化が進み、まずヨシ、次にオギが生え、続いて潅木が生えます。完全に乾くと森林になります。川は最後まで残りますが、長い目で見ると侵食が進み、V字谷の渓谷になります。谷戸が谷戸であり続けるには、人間が自然の浸食作用を食い止めるしかありません。農家の方が、先祖代々耕作されていたことで、谷戸の風景が残っているわけですね。豊かな自然は自然が作ったのではなく、人間が作った、つまり農家のご先祖様が作ってくれたことに気付きました。人間の汗の塊が見えました。深山と里山を一緒にしてはいけないと思います。
 ─里山には里山を構成する条件が必要なのですね。
 久保氏 水が一番大事です。水があるから湿地や川が存在します。次に草原。三番目に森です。よく緑が大切といいますが、どうも景観的にきれいな森さえあればいい、という意見が多いようです。よそから鎌倉にきた人は「お寺があって森がある、さすが鎌倉」と感激します。でも、薄暗い森の中には、鳥はいても昆虫はいません。水辺と草原と森がワンセットになって、はじめて自然として機能するのです。自然を守るといっても、どういう所が守りどころか、しっかり考えないと意味がないと思います。それに地域にあった守り方をする必要があります。それには現場を知らない役所や偉い学者の提供するデータを鵜呑みにしないで、実際に歩いて取捨選択をしたらいいと思います。

●旧鎌倉の緑地では代替がきかない
 ─鎌倉の場合、ワンセットになった自然はどこに残されていますか。
 久保氏 荒れ放題になっていますが、大きな所では台峯と広町の二つしかありません。神奈川県レベルでも台峯と広町の他には、三ヵ所のみです。例えば旧鎌倉地区の二階堂には、まとまった緑地が残っています。台峯より面積は大きいのですが、森と川(渓谷)があっても田畑がないため、草原性の生き物はいません。旧鎌倉に緑地が残っているから、台峯は開発してもいいということにはなりません。代替がきかないのですから。台峯は、貴重な生き物の宝庫です。荒れ放題になっている台峯の自然を保全するには、まず乾燥化を防ぐ必要があります。そうしないと湿地が維持できません。草刈りも必要です。草刈りをすれば日当たりが良くなり、野草の種類が増えます。帰化植物も生態系を狂わせるので除去しなけれなりません。湿地の水質管理のためには、ヨシを間引く必要があります。
 ─自然保護活動に参加したいと思っている市民にアドバイスをお願いします。
 久保氏 いろいろなグループがあって、さまざまなことをしています。人によって興味のある分野も違うし、レベルも違います。でも結局は人間関係ですから、自分と相性のいいところを選んだらいいと思います。それとあせらないこと。十年経たないと結果は出ません。参加し、過程を楽しみながら、目標を達成していくのだという心構えで参加されてはいかがでしょうか。

●自然には急所がある
 ─行政への注文は。
 久保氏 土木関係者が、主流で、公園を作る場合、どうもしっかりした構造物を作ろうという意識が強すぎるようです。造園関係者が少なすぎます。補助金との絡みで、市の職員にとっては、神奈川県や建設省の検査をいかにクリアするかが、最大の関心事のようです。検査が終わったら、構造物を壊すという笑い話さえあります。市の職員もいいと思ってやるわけではないが、検査を通らないと困る。そこで県や建設省に文句を言うと市が主体だから、市民のやりたいようにやってくださいと言われる。責任の所在が分からない、巧みな仕組みが出来上がっています。行政のゆがみといっていいかもしれません。行政には土地の歴史、土地に人の思い、文化を反映させのだという強い哲学を持ってほしいですね。例えば中央公園という名前。実に無味乾燥です。地名にちなんだ山崎公園の方がずっといいはずです。土地の人の思いを無視しています。
 ─台峯に通い詰めて一番印象に残った光景は。
 久保氏 そういうものがないのが、谷戸なのではないでしょうか。いつもの時期にいつもの風景がある。それが毎年繰り返される。しかし、よく見ると年によって違う。あるいは時々刻々変化する。一見スリリングなことがなくても、その人の気持ち次第では、スリリングな気分を味わえます。ようやく台峯の自然の容態というか、顔色が見えるようになりました。自然には急所があります。谷戸そのものが人体なんです。本来の状態からすれば、病んでいます。完全な治療はできないが、どういう応急手当をすればいいか分かってきました。はっきり言えるのは谷戸は、人が来ないと悲しいと思っているのではないかということです。谷戸で遊んだり、作業をする。是非とも谷戸を歩いてください。尾瀬とかエベレストは、人が来ることを怒っているのではないでしょうか。人間が入るべきところに入らないで、入ってはいけない所に入っている。そんな気がしてなりません。