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ガイドブックに載らない北鎌倉の神々・PART3
―小津監督の姿はまるで「巌」のようだった―

 

  北鎌倉まちづくり協議会は去る4月3日(土)、4日(日)に北鎌倉匠の市を開催した。3日には匠の市と同時に浄智寺書院で、生誕100年記念企画「小津安二郎と北鎌倉」を開催した。内容は【お寺Deトーク】と小津安二郎ゆかりの場所を訪ねる【北鎌倉ウォッチング】。【お寺Deトーク】は朝比奈宗泉・浄智寺閑栖(かんせい)が、山内静夫・鎌倉ケーブルコミュニケーションズ会長と兼松熈太郎・日本映画撮影監督協会理事長のお二人から、生前の小津監督のエピソードを伺った。「映画の神様」の人間味溢れる話が聞けて、とても楽しかった。そのハイライト場面を紹介する。

▽究極のオシャレ
朝比奈氏:白いピケ帽、白いワイシャツ、そしてお決まりのズボンと小津さんのファッションはいつも同じでしたね。

山内氏:白いピケ帽をかぶっていたのは、セットの中では、モノが上から落ちたりするので危ないからでしたが、同じような帽子、洋服を20点から30点、しかも同じ店に注文して作っていましたね。究極のオシャレだったと思います。出演する俳優さんの衣装も衣装監督と一緒に決めました。映画のセットも自分の好みでした。家の作りなんか全部同じ。担当の美術監督がちょっと変えたら、元通りにしてしまいました。個性が強かったんですね。完全主義者かな。

兼松氏:小津監督の「絵」は静かな世界で、格調が高かったと思います。構図をものすごく大切にされました。カメラは定位置で、俳優の立つ位置、坐る位置も小津さんが決めました。食器などを置く場所のマークを自分で付けました。セットの中の灯籠も含め、絵なんかも全部本物です。灯籠は簡単には、動かせないですよね。「秋日和」の時です。いい移動車があると聞いて。移動車を灯籠動かすために使っちゃいました。

山内氏:女優さんが泣くときは必ず、両手で顔を覆って、泣きます。原節子さんだって、他の女優さんもみんな同じ(笑い)。女性が泣く時は顔を隠す。それが小津さんの考え方だった。町並みに出てくる看板の字も全部自分で書く。美術の人がもってきても、自分で書いてしまう。同じ字で。「俺はこの字が好きだ」といって。頑なに映画をつくっていました。北鎌倉に住んでからは一度も鎌倉ではロケをしていません。何でかな?自分の住んでいる身近な所でロケするなんて、嫌だったのかも。

▽愛して止まない息子に美味しいものを
朝比奈氏:小津さんの日常のお世話をしていた小川さんという女性がいました。小津さんが亡くなった後、5、6年浄智寺でお預かりました。料理が素晴らしくうまかった。ヒジキや野菜の煮つけは甘からず、辛すぎず。焼き魚なんかも焼き具合が、絶品でしたね。

山内氏:お母さんが小川さんに厳格に仕込んだんです。愛して止まない息子に美味しいものを食べさせようという親心でした。本人はグルメでしたが、口は出さなかったですね。

朝比奈氏:小津さんが住まれていた頃の北鎌倉は田舎でした。

▽永遠の人生のテーマを追い続けていた…
山内氏:鎌倉に住みたがっていました。若い頃は映画界の人と付き合っていましたが、戦後は同業者とはほとんど付き合いませんでした。付き合うのは作家とか画家でした。

兼松氏:映画の世界で、トップの位置を極めた。だから別の世界のトップの人間と付き合って、何かを吸収し、さらにその先を極めたいと思ったのでしょう。すべて一級品じゃないと駄目でしたね。さっき言いましたように、撮影に使う絵は本物だから、撮影が終わるとその絵は白い手袋をして金庫に保管しました。事大主義かもしれないが、そういうことって大事だと思います。実に丁寧に撮り続けました。取り組み方が真剣で真摯でした。亡くなられてから40年経ちます。約半世紀前の映画です。分かりやすい家庭内の話です。永遠の人生のテーマを追い続けていたのだと思います。先見の明、達見の明があった。だから古びていかない。

 山内氏:まったく、古さを感じさせない。自分の背負っているものの重さをきっちりと受け止め、映画のテーマにされていた。

兼松氏:巨匠と呼ばれる映画監督は何人もいました。その中で、私も含めて含めて、スタッフが監督の名を「先生」を付けて呼んでいたのは小津監督だけでした。カメラをのぞく小津監督の姿はまるで「巌(いわお)」のようでした。本当に凄い人でした。
 

<プロフィール>
山内 静夫(やまのうち・しづお)氏
 鎌倉文士・里見とんの四男。作家・有島武郎、画家・有島生馬の甥。昭和23年松竹(株)入社。小津安二郎作品のプロデューサーとして、昭和31年「早春」から、「東京暮色」、「彼岸花」、「お早よう」、「秋日和」、遺作となった『秋刀魚の味』まで6本を手がける。大船撮影所プロデューサー、取締役を経て、現在、鎌倉ケーブルコミュニケーションズ会長。著書に『谷戸の風』『松竹大船撮影所覚え書』など。

兼松 熈太郎(かねまつ・きたろう)氏 昭和32年松竹入社。大船撮影所時代、「小津組」に所属し、山内静夫がプロデュースした小津安二郎作品「彼岸花」「秋日和」の撮影助手を担当した。北鎌倉ウォッチング・「小津安二郎ゆかりの場所を訪ねる」の案内役を務める。現在、北鎌倉の明月谷に在住。日本映画撮影監督協会理事長(代表理事)。

朝比奈 宗泉(あさひな・そうせん)氏 昭和25年、早稲田大学政経学部卒業。翌年TBS(現)入社。「兼高かおる世界の旅」などのプロデューサーを経て、1979年仏門へ。以降、浄智寺(臨済宗円覚寺派・鎌倉五山の第四位)住職を経て、現在は閑栖。著書に「今日、一途に―鎌倉名刹・浄智寺、老僧の独白譚」(実業之日本社)。父の宗源(そうげん)は元円覚寺管長、息子恵温(えおん)は現在、浄智寺住職・円覚寺宗務本所勤務 。

 

左から朝比奈閑栖、山内会長、
兼松理事長(浄智寺書院)

 

会場には小津監督のあのスチールが…
(浄智寺書院)


北鎌倉ウォッチングに出発!(浄智寺参道)

 


 

小津監督の墓前で手をあわせる観光客(円覚寺)―吉田俊也さん提供―

 



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